共有

第94話 この服は、この線で完成する

last update 公開日: 2026-05-04 18:57:41
 部屋の静けさを裂くように、別の着信音が鳴った。

 私じゃない。怜司のスマートフォンだった。

 ベッド脇の小さなテーブルに置かれていた画面が点灯する。

 視線が吸い寄せられる。

 名前を見た瞬間、胸の奥で何かが冷たく軋んだ。

 セラフィナ・ヴァルデ。

 怜司も画面を見た。

 ほんのわずかに表情が変わる。

 迷いではない。

 でも、無視できないと決めた顔だった。

「……出るんですか」

 自分でも驚くほど、声が冷えていた。

 怜司はすぐに答えない。

 その沈黙が、答えみたいだった。

「理由がある」

 低い声。

 それだけだった。

 理由。

 そう言われても、今の私には何ひとつ救いにならない。

 怜司は私を見る。何かを言おうとして、結局言わなかった。

 スマートフォンを取り、コートへ手を伸ばす。

 その動作ひとつひとつが、胸の奥を静かに切り裂いた。

「澪」

 呼ばれても、返事ができなかった。

 怜司は部屋を出た。

 扉が閉まる直前、低い声が廊下に落ちる。

「ああ、今か?」

 ほんの短い
この本を無料で読み続ける
コードをスキャンしてアプリをダウンロード
ロックされたチャプター

最新チャプター

  • 極貧デザイナーの私が、冷徹CEOに溺愛されるなんて!?   第136話 最低でしょう

    「早かったな、怜司」  レオーネの声は、昼の港にひどくよく響いた。  怜司は返事をしなかった。  桟橋から船へ渡るタラップを、迷いなく上がってくる。  黒いスーツの裾が、海風でわずかに揺れた。  怒っている。  でも、それだけではない。  怜司の目は、私の肩に置かれたレオーネの手を見ていた。  次に、近すぎる距離。  最後に、私の唇。  何も起きていない。  そう言いたかった。  けれど、言葉が出る前に、怜司がレオーネの前で足を止めた。 「手を離せ」  低い声だった。  レオーネは笑う。 「彼女が嫌がれば離す」 「俺が言っている」 「だから?」  空気が、薄く鋭くなる。  私は反射的に口を開いた。 「怜司さん、違う」  怜司の目が私へ向く。  その瞬間、胸の内側が縮んだ。  責められると思った。  でも、彼の目にあったのは、怒りより先に傷だった。 「違うなら、なぜ動かなかった」  痛かった。  そう聞かれると、答えに詰まる。  キスをしたかったわけじゃない。  レオーネに惹かれたわけでもない。  でも、この距離から逃げなかった。  この船でしか掴めないものがある気がして、私はその危うさの中に立っていた。  その事実は、消せない。  レオーネが楽しそうに目を細める。 「彼女は仕事をしていた」 「唇に近づくことがか」 「失われた愛を作るなら、失いかける瞬間を知らなければならない」  怜司の視線が冷たくなる。 「お前のやり方は、いつも人を値踏みする」 「君のやり方は、守る名で囲う」  レオーネが、少しだけ身を乗り出した。 「彼女を守りに来たのか。閉じ込めに来たのか」  怜司の顎がわずかに動く。  図星ではない。  でも、完全に外れてもいない。  私にも、それが分かってしまった。 「私は」  二人の間で、声を出す。 「物じゃありません」  レオーネが笑う。  怜司は笑わない。 「分かっている」  怜司が言った。 「分かっているなら、今、私を連れて帰るみたいな顔をしないで」  言った瞬間、自分の声が少し揺れた。  怜司の目が変わる。  痛みが、さらに深くなる。 「帰れと言うつもりはない」 「じゃあ」 「二人で話す」  そう言って、怜司は私の手首を取った。

  • 極貧デザイナーの私が、冷徹CEOに溺愛されるなんて!?   第135話 次の港で待っていた男

     夜更け、レオーネと別れて船室へ戻ると、怜生は私に用意されたベッドで眠っていた。  シッターが声を落として、「よく眠っています」と告げる。  小さな船の模型をもらったらしく、胸に抱えたまま離さない。  眠った顔を見て、少しだけほっとする。  甲板の空気が、まだ身体のどこかに残っている。  レオーネのコート。  近すぎる声。  黒い海。  そして、背中に生まれた線。  浮気ではない。  そんな言葉で自分に言い聞かせる必要がある時点で、もう少し危ういのだと思う。  でも、怜司を裏切りたいわけではなかった。  レオーネに恋をしたわけでもない。  ただ、この船の上でしか掴めないものがあった。  そのことだけは、嘘にできなかった。  その夜は、ほとんど眠れなかった。  怜生の寝息を聞きながら、何度も目を閉じた。  でも、瞼の裏に浮かぶのは、怜生の顔だけではなかった。  甲板の黒い海。  レオーネの青い目。  遠ざけたはずの距離。  枕元に置いたスマートフォンは、何度か光った。  怜司からだと分かっていた。  指を伸ばしかけて、やめる。  声を聞いたら、戻りたくなる。  怒られてもいい。  抱きしめられてもいい。  全部を投げ出して、ただ怜司のそばへ帰りたくなる。  それが怖かった。  勝ちたいと思った夜に、いちばん会いたい人の声を聞けない。  そんな自分が、ひどく嫌だった。  翌日の昼前、船は次の港へ近づいていた。  昨夜、真珠の老婦人に言われた言葉が、何度も戻ってきた。  いい服。  でも、この船では少し足りない。  悔しい。  でも、その悔しさは、少しだけ形を持っていた。  足りないなら、足せばいい。  素材の値段ではなく。  古い家名の真似でもなく。  この場所の視線に負けないだけの、毒と重さを。  船がゆっくり速度を落としていた。  出港した場所とは違う。  白い建物の並ぶ、小さな港町。  昼の光が、石造りの岸壁を白く照らしている。  シッターにもう少しだけ怜生を頼み、私はひとりで甲板へ出た。  潮の匂いが強い。  昼の海は、昨夜よりも容赦なく明るかった。  夜なら隠せた迷いまで、光の中では全部見えてしまう気がする。  白い手すり。  磨かれた甲板。  遠くで鳴る船

  • 極貧デザイナーの私が、冷徹CEOに溺愛されるなんて!?   第134話 君臨は背中から始まる

     そのまま、サロンの中央へ出る。  ランウェイではない。  けれど、テーブルの間に一本の道ができていた。  深い青のドレスが、脚に沿って落ちる。  背中が冷たい。  視線が、そこへ刺さる。  一歩。  作る側では分からなかった重みがある。  もう一歩。  見られることは、奪われることに似ている。  それなのに、肌の奥がかすかに熱を持つ。  視線を集めることが、こんなにも怖くて、こんなにも甘いものだとは知らなかった。  でも、見せ方を選べば、支配することにもなる。  私は途中で一度だけ、視線を切った。  誰かが息を吸う気配がした。  その瞬間、止まっていたドレスの背中に、一本の線が入った。  失われた愛。  それは、泣く女の正面ではない。  君臨すると決めた女の背中に出る。  分かった。  私は振り向く。  レオーネが、満足そうに見ている。  その後ろで、さっきまで談笑していた客人たちが黙っていた。  真珠の老婦人はグラスを持ったまま、私の背中を見ている。  若い男のひとりは、笑いかけた口元の形を忘れたみたいに固まっていた。  拍手はない。  でも、その沈黙の方が深かった。  レオーネが、ゆっくり口角を上げる。 「これだ」  低い声だった。 「君臨は、正面から始まるとは限らない」  バッグの底の青を、ふと思い出した。 ***  夜が深くなると、サロンの熱は少しずつほどけた。  客人たちはグラスを持ったまま別の部屋へ流れ、音楽だけがまだ薄く残っている。  私は甲板へ出た。  海は黒かった。  空も黒い。  その境目だけが、船の灯りを受けて銀色に揺れている。  潮風が頬を冷やし、波音が船底の奥から低く響いていた。  さっきまでのサロンの拍手も、香水も、値踏みする視線も、遠い別世界の出来事みたいに感じる。  ドレスの背中に、夜風が触れた。 「寒いか」  レオーネが隣に来ていた。  船の灯りを受けた金髪が、夜の中で淡く光っている。  青い目は海より明るいのに、底だけが暗い。 「少し」  彼は自分のコートを私の肩へかけた。  上質な布と、逃げのない仕立て。  一着で、MIOの月の売上くらいは簡単に飛びそうだった。  その分、肌触りは極上だ。  ほのかに苦い香水と、冷えた夜気の

  • 極貧デザイナーの私が、冷徹CEOに溺愛されるなんて!?   第133話 普通でいたら、あの場では勝てない

     ダイニングサロンへ入った瞬間、声が少し遠のいた。 着飾った男女の視線が、いっせいにこちらへ向く。私のドレスを確かめて、次に隣のレオーネへ移り、最後に私たちの距離を測る。その順番だけで、ここがどういう場所なのかが分かった。誰と来たか。誰に連れられているか。服より先に、それが値踏みされる。 丸いテーブルには銀の皿と薄いグラスが並び、白い花とキャンドルが低く灯っていた。窓の外では夜の海が黒い布のように広がり、中央の小さな舞台では弦楽四重奏が静かに曲を弾いている。急がない、主張しない。でもそこにあるだけで、空気の値段を上げる音だった。 私はこの場所を知っているふりができない。それでも、小さなバッグの底には怜生がくれた青い布がある。そう思うだけで、完全には飲まれずに済んだ。 レオーネが私を隣の席へ導きながら、客人たちへ言った。「こちらは、ミオ・シラカワ」 その瞬間、いくつかの視線が濃くなる。「ああ、セラフィナのジャケットの」「ルクソリアと組んだ若いデザイナー?」「ガラに出るという噂の」 レオーネの視線が私のドレスへ落ちた。「今夜、彼女が着ているのはMIOではない」 客人たちの目が、私の身体の上で止まる。深い青のドレス。彼が用意した、私のものではない服。「だからこそ分かるはずだ。MIOがまだ持っていないものが」 意地悪な言い方だった。でも、ただ晒されているわけではない。このドレスは私の足りなさを見せるためではなく、足りないものを身体で覚えさせるために用意されていた。 真珠の老婦人が、私を見た。「MIOの服は、面白いわ」 やわらかい声だった。だからこそ、次の言葉が深く入った。「感情がある。欲もある。着る人の背中を少し変える力もある」 そこで彼女は静かに微笑んだ。「でも、この船の客を黙らせるには、まだ少し足りない」 昔の工房で使っていた、安い生地の感触を思い出した。高価な素材なんて使えなかった。薄い布が貧しく見えないように、安い光を少しでも美しく逃がせるように、私はずっと足りないものを工夫で補ってきた。その時間は間違いじゃない。MIOは王族の晩餐だけを相手にするブランドじゃない。朝の駅へ向かう人にも、仕事帰りのバーへ寄る人にも、少しだけ背筋を伸ばしてほしくて作った服だ。 でも、ルミナス・ガラは違う。あの舞台に持っていく一着だけは、足り

  • 極貧デザイナーの私が、冷徹CEOに溺愛されるなんて!?   第132話 勝つために切った電話

     レオーネは通話を切らせなかった。  私が何か言うより先に、彼は船の白い階段を上がっていく。  その背中は、こちらがついてくると疑っていない。 『澪、今どこにいる』  怜司の声が、電話の向こうで低く響く。 「……港です」 『港?』 「仕事です。レオーネに、連れてこられて」  言った瞬間、自分でもひどい説明だと思った。  怜司の沈黙が刺さる。 『怜生は』 「一緒にいます」  少しだけ、空気が変わった。 『そこを動くな』 「それは」  答える前に、レオーネが振り返った。 「動くなと言われたなら、なおさら動け。君は誰の荷物でもない」  電話の向こうで、怜司の呼吸が硬くなる。 『その男に代われ』 「代わりません」  自分でも驚くほど、はっきり言っていた。  怜司に会いたい。  今すぐ来てほしい。  でも、ここで言われた通りに止まれば、私はまた誰かに運ばれるだけの女になる。 「後で連絡します」 『澪』  切った。  切ってしまった。  なんてひどいことをしたんだろう。  だけど、切らなければ戻ってしまう気がした。  怜司の声のする場所へ。  守られて、抱きしめられて、何もかも忘れてしまえる場所へ。  それでは、ルミナス・ガラでは勝てない。  レオーネは満足そうに笑った。 「よくできた」 「褒めないでください」 「では、始めよう」 ***  案内された船室は、部屋というより小さなホテルのスイートだった。  壁一面の窓。  海へせり出したバルコニー。  磨かれた木の床。  低いソファ。  銀のトレイに並んだ果物と、子ども用の小さなグラス。  怜生は、青い布見本を抱えたまま固まっている。 「まま、ここ、おうち?」 「違うよ」  違う。  違うはずなのに、船室の奥にはすでに子ども用の椅子と、絵本と、ミニカーまで用意されていた。  背筋が冷える。 「用意がよすぎます」 「王族の子どもも乗る船だ。子どもに退屈させる方が失礼だろう」  レオーネが軽く手を上げると、女性スタッフが二人、静かに入ってきた。  片方は怜生の前に膝をつき、やさしく微笑む。 「Bonsoir, petit prince」  怜生は少し考えてから、首を振った。 「れお、王子じゃない」  女性スタッフが笑う

  • 極貧デザイナーの私が、冷徹CEOに溺愛されるなんて!?   第131話 ミューズの休息

    「は?」  間の抜けた声が出た。  レオーネ・ヴァルカは、約束の時間に迎えへ来ただけみたいな顔で、私のアトリエに立っていた。  高すぎるコート。  磨かれた靴。  金色の髪。  型紙や怜生のクレヨン、ミナの納期表の中で、その男だけが別の階級の空気をまとっている。 「迎えに来たと言った」 「聞こえました。意味が分からなかっただけです」  レオーネは愉快そうに笑う。 「煮詰まっているだろう」 「だからって、急に来ますか」 「急ではない。三ヶ月待った。ガラの衣装が滞っていると、セラフィナから聞いた」  セラフィナ。  あの女なら言う。  私を助けるためではなく、追い詰めるために。 「デザイナーには、インスピレーションの時間が必要だろう」  言い返そうとした時、怜生が青い布見本を抱えたまま、私の脚のそばへ寄ってきた。  レオーネの視線が、怜生へ落ちる。  ほんの少し、目が細くなった。 「目元が怜司にそっくりだ」  胃のあたりを、直接押されたような気がした。 「……そういうことを、ここで言わないでください」 「事実だ」 「事実でも、言っていいことと悪いことがあります」  レオーネは怜生をもう一度見た。  怜生は、知らない金髪の男をじっと見上げている。  泣きも笑いもせず、私の服を見る時と同じように観察している。 「この子も連れていく」 「連れていく?」 「置いていく気か」  言葉に詰まった。  置いていく選択肢はなかった。  今日だけアトリエにいる怜生を、急に誰かへ預ける方が難しい。  けれど、レオーネについていく場所に、怜生を連れていっていいのか。  迷った瞬間、ミナのスマートフォンが鳴った。  続けて、ノアの端末も音を立てる。 「……白川さん」  ミナが画面を見たまま固まっている。 「何ですか」 「主要納品分、先方から一週間の納期延長が入りました」 「え?」 「理由は、展示スケジュールの調整。急ぎ分の輸送費も、先方負担に変更されています」  ノアが、今度は自分の画面を見て声を上げた。 「ミオ、海外問い合わせの一次対応、ヴァルカ財団側のスタッフが一時的に引き取るって。正式な文面で来てます」 「……何をしたんですか」  私がレオーネを見ると、彼は肩をすくめた。 「君を連れ出すのに、

続きを読む
無料で面白い小説を探して読んでみましょう
GoodNovel アプリで人気小説に無料で!お好きな本をダウンロードして、いつでもどこでも読みましょう!
アプリで無料で本を読む
コードをスキャンしてアプリで読む
DMCA.com Protection Status